研究員 山岡政紀
はじめに
2019年4月1日に松岡幹夫氏が「創価信仰学」を探究することを目的として創学研究所を発足しました。本稿では創学研究所の意義を確認し、その活動を活性化していくために、「創価信仰学」とは何かについて私の理解するところを述べさせていただきます。
宗教学・仏教学との対比
「創学研究所」について松岡氏は、「信仰と理性の統合」を目的に掲げ、創価学会の「信仰学」を探究する研究機関であると創学研究所のホームページで述べています。「信仰学」とはキリスト教で言えば「神学」(theology)に当たるものですから、「創価信仰学」とは、誤解を恐れずにわかりやすく言えば「創価学会版の神学」と言えるでしょう。
神学の歴史は古く、紀元前(イエス・キリスト生誕以前)の古代ギリシャの哲学者たちに最初期の神学を見出すことができます。以来、長い歴史のなかでキリスト教の信仰のなかにある世界観や生命観の論理を哲学として言語化する役割を果たしてきました。特に欧州において神学は西洋文明に精神的基盤を与えるほどの影響力をもちました。その表れとして、ボローニャ大学など欧州の最初期の大学から神学部は既に存在し、長い伝統を有します。日本でも上智大学や同志社大学といったキリスト教系の大学に神学部があります。それは、「神学」が学生の人格形成にも資する哲学をもった学問としての価値を認知されてきたことの証でもあります。
いっぽう、17世紀の近代科学成立以降に発達してきた「宗教学」(religious studies)は、「人類学」(anthropology)や「民族学」(ethnology)と同じく経験科学の一種であり、調査による客観的なデータ収集とその分析によって理論構築します。もともとキリスト教文明の中にいた研究者がキリスト教以外の宗教、特に少数民族の未知の宗教を調査する目的でキリスト教神学から分化して成立したのが近代の宗教学です。そのため、宗教学は神学が行うような信仰の哲学的な探究と言うよりも、信仰する人々や社会に現れる事象データを外から考察する方法論を採っています。
結果として、「神学」と「宗教学」は全く異なる学問となりました。例えば、「神学」では神の存在は常に大前提であり、神を信仰する人々の世界観がいかなるものであるかを聖書に基づいて述べていきます。それに対して「宗教学」の場合は科学的視点から「神」の実在について検証しようと試みます。その結果、宗教学者は「神」を否定することにも躊躇はなく、信仰に対して距離を置いて見ることになります。敢えて単純化して対比すれば、「神学」は宗教を内側から(結果として肯定的に)見、「宗教学」は宗教を外側から(結果として否定的に)見るという、正反対の視点からアプローチするようになります。「創価信仰学」は、この対比の観点から言えば、「神学」と同じく宗教を内側から見る「信仰学」の一つです。
必然的に「信仰学」は多くの場合、その宗教を信仰する人によってなされます。それに対して「宗教学」は当該宗教の信仰を全く持たないか、持っていたとしても冷徹に距離を置いて客観的に分析できることが求められます。
近代科学のパラダイムも一つの価値観であって、それを絶対視してすべての判断基準に据えるのは、科学信仰という名のある種の信仰と言えるでしょう。科学信仰のパラダイムをもって宗教信仰の内実を論じようとしても、他言語の話者どうしが通訳なしで会話するようなもので正しい理解に到達できないのは当然です。
仏教学(Buddhist studies)も今日、一般的には欧米で発達した宗教学の一分野としての近代仏教学を指します。ただし、先述のいわゆる少数民族の宗教と違って仏教にはおびただしい量の経・律・論という文献がありますので、その成立や解釈を巡る文献学的な考察が今日の仏教学の大きな要素を占めています。それは目的においても方法論においても仏教信仰の内実を探究する学問とは言い難いものです。それら経・律・論の文献は今日において、寺院建築などの歴史的建造物と同様に、過去の精神遺産となってしまっています。生きた信仰が根付いていない伝統仏教にはキリスト教神学に相当する「仏教信仰学」が成立しませんでした。
しかし今日において、現代に生きる一般庶民の人々が幸福を追求し、平和社会の構築を目指す哲学であり得るところの仏教信仰が創価学会には生き生きと脈打っています。仏教学とは異なる立場、方法論を持った信仰学が創価学会の系譜から生まれ出ることは必然であったと思うのです。そして、日蓮仏法を生きる哲学として示し、人々に勇気と希望を与えてきたのが創価三代の師弟、なかんずく池田大作先生であります。したがって、池田先生の言説はすべてこの「創価信仰学」の対象となります。
信仰それ自体は主観的な心理行為ではありますが、信仰学はそれを独善的で閉鎖的な主観空間に閉じ込めるのではなく、確たる論理を持った哲学として普遍的な言語で説明することを目指します。その意味で、信仰学は近代科学が要求する経験科学的な客観性とは異なる別の意味での言語的客観性を要求します。ゆえに真に優れた信仰学は宗教教派を超えた共感をもたらし、教派間の対話と協調を可能にするはずです。事実、池田先生は日蓮仏法の哲学を常に現代の普遍的な開かれた言葉で展開してこられました。創価大学、創価学園など創価一貫教育の学校においては創立者である池田先生は、信仰を持たない学生・生徒にもわかるように、敢えて仏法用語を用いることなく激励の言葉を贈ってこられました。また、キリスト教文化やイスラム文化を背景とする有識者との宗教間対話も数多く実践してこられています。それらはすべて日蓮仏法の哲学を現代の言葉に普遍化したものでした。
逆から言えば、池田先生の言説はすべて日蓮仏法の言葉で再解釈することが可能であり、それを行うことも「創価信仰学」の重要課題と言えます。松岡幹夫氏はこれまでにも著書『新版日蓮仏法と池田大作の思想』(第三文明社刊、2018年)などにおいてその作業を既に実行されています。このように池田先生の言説を読み解いていく作業が「創価信仰学」の中心となることは間違いありません。
佐藤優氏の信仰学に見る宗教間対話の可能性
創学研究所の活動で私が喜びを覚えるのは、元外交官で作家の佐藤優氏が2019年3月12日の開所式と同年9月6日の研究会にゲスト参加され、貴重なコメントをくださったことです。佐藤氏はキリスト教プロテスタントの信仰者であり、かつ神学者としてキリスト教の哲学を言語化できる表現力と見識をお持ちでもあります。驚くべきことは、佐藤氏がその視点と方法論を他宗教である創価学会の信仰に対しても適用し、その結果、極めて的確な理解・把握に到達されていることであり、そのことは著書『池田大作研究-世界宗教への道を追う』(朝日新聞出版刊、2020年)にもよく表れています。先ほど、信仰学は「多くの場合、その宗教を信仰する人によってなされる」と述べました。しかし、佐藤優氏による「創価信仰学」はその宗教を信仰していなくても外からの視点の信仰学が可能であることを示す優れた事例であると言えます。佐藤氏がこのような信仰学を可能にした原点は、氏がキリスト教のエキュメニズム運動にコミットしているところにあるようです。
キリスト教内では長い年月と世界宗教化の過程でカトリック、プロテスタントをはじめとする多くの分派が生まれ、互いに自派を正統として他派を非難する争いを続けてきたのですが、20世紀に入ってキリスト教を再び一つの原理のもとに再統一しようという動きがプロテスタント諸教派から起こりました。これをエキュメニズム運動(ecumenical movement; 世界教会主義運動)と言います。ローマのカトリック教会もこれを支持しています。佐藤氏はこの運動を成功させるには、他派の教理を自派の論理で読み取ろうとするのではなく、他派が有する「内在的論理」(その教派の信仰を支える固有の世界観や哲学)を読み取って普遍的な言葉に置き換えることが不可欠だと考え、実践されています。つまり、「内在的論理」とは、宗派間対話を可能にする翻訳原理と言えます。そして佐藤氏はこの翻訳作業を、他宗教である仏教教派の創価学会との宗教間対話にまで応用しているわけです。
佐藤氏による「創価信仰学」は「外から見た内在的論理」であるのに対し、私たちが取り組む「創価信仰学」は「内から見た内在的論理」ということになります。外から見たほうが適切に普遍化するための言葉を見つけやすい面もあります。それは、言語学で言えば、日本語を第二言語として客観的に学習した外国人学習者のほうが、日本語を母語として知らず知らずのうちに覚えた日本人母語話者よりも日本語の文法をよく知っているという事象に似ています。しかし本来、「内在的論理」は外から見ても内から見ても同じものでなければ翻訳原理として役に立ちません。ちょうど私自身が日本語を記述する方法論を学びながら日本語学の研究を行ってきたように、適切な信仰学の方法をもって創価学会の「内在的論理」を言語化することで、宗教間対話に資する「創価信仰学」の構築が可能なはずであり、それを目指していきたいと考えています。そして、せっかく佐藤氏の神学に触れたのですから、キリスト教の「内在的論理」についても学んでみたいと思います。それは佐藤氏が常々言われるように、キリスト教が世界宗教となったプロセスをアナロジーとして学ぶことの意義深さもありますし、私たち自身も「外から見た内在的論理」を探究する視点を持つことで「信仰学」がもつ宗教間対話の可能性を拡げることができると考えるからです。
さいごに
以上のように整理してみると、日蓮仏法が生きた信仰として世界の人々の心にいかにして根付いてきたか、そして池田大作先生という指導者の言葉がいかにして世界の人々の心に共感を拡げてきたかを、なるべく正確に言語化し、社会に対して示していくことが「創価信仰学」の役割であり、それを探究する「創学研究所」の使命であると確信いたします。私自身も微力ながら「創価信仰学」の発展のために尽力してまいりたいと決意しています。
2020/4/1掲載 2021/8/28更新