創学研究所の開所式、誠におめでとうございます。松岡幹夫所長とは、第三文明社の企画『創価学会を語る』をはじめ、仏教とキリスト教の視座から、これまで数多くの対話を重ねて参りました。
松岡所長は、常に池田大作先生から出発されています。学問の立場から信仰を相対化することなく、弟子として貫くべき前提を生きている。だからこそ、私は信用しているのです。
本日は、創学研究所の主旨を踏まえた上で、キリスト教神学の立場から、いくつか関連する内容について、お話させて頂ければと思います。
プロテスタンティズムと創価学会の共通点
同志社大学神学部の大学院で学んだときに、私は仏教について学ぶ機会がありました。そのなかで、キリスト教と親和性の高い仏教は、他力本願の浄土真宗である、と習ったのです。
しかし、創価学会員の皆様、就中、松岡所長との語らいを通じて、この認識が誤ったものであることに気付きました。病気や貧困といった現実生活上の悩み、すなわち「此岸」の問題を解決できない宗教に、死を代表とする人知を超えた「彼岸」の問題を解決することはできません。
これは、プロテスタンティズムにとって極めて自然な宗教観であり、日蓮仏法・創価学会との間に見出せる共通点と言えるでしょう。
さらに、「信仰の起点をどこに置くのか」といった問題において、重要なアナロジーがあります。私たちは、キリスト教を信仰する上で「旧約聖書」から「新約聖書」を読み解くわけではない。アブラハムやモーゼではなく、危機の時代に救済を説いたイエス・キリストから出発しない限り、信仰上の正しい実践を理解することはできません。
これは、創価学会の文脈で言えば、仏教の創始者・釈尊からではなく、末法の時代における広宣流布を実践した日蓮大聖人から仏法を追求する立場と同じです。過去、現在、未来を時系列に結んだ歴史的直線の始まりに信仰の起源を求めるのではなく、時代的制約を超えて、民衆に開かれた宗教的普遍性が明らかにされた瞬間こそが「信仰の起点」となるのです。
キリスト教と啓蒙主義
創学研究所では「信仰と理性の統合」を目的に掲げて、本年から「啓蒙主義と宗教」を主題に研究会を企画している、と伺いました。キリスト教もまた「啓蒙主義」に苦しみました。
啓蒙主義が誕生した時代、所謂、文書の歴史的起源を批判的に分析する「高等批評」が、聖書研究に導入されました。その結果、聖書に収められるいくつかのテキストが「聖典」ではない、ということが明らかにされます。例を挙げると、イエス・キリストの復活を説く「マルコの福音書」は、近代の文献学では存在しないことになっています。そもそも、1世紀にイエス・キリストという人物が居たのか、或いは居なかったのか。いずれにおいても、証明することはできません。そこから、神学は大きく二つに分かれていきます。
ひとつは、「史的イエス」の存在が証明できない以上、キリスト教という「現象」を分析対象として信仰の内容を説明しようという試みが生まれました。これが宗教学の立場です。しかし、近代合理主義に基づく文献学や歴史学は、信仰を実証可能な歴史のなかに還元しようとします。したがって、その本質は無神論もしくは不可知論なのです。
もうひとつは、実証主義で証明可能な時代を「近世以降」に限定し、その前に関しては、確実に存在したと想定する「信仰上の事実」からキリスト教を論じる立場があります。これが現在、主流となるプロテスタンティズム神学となっています。今後、こうした問題は、創価学会の皆様にとっても、重要なトピックになるはずです。
キリスト教と異端
キリスト教の歴史にはまた異端との戦いがありました。その時に、必ずと言ってよいほど、イエス・キリストのみではなく、「別な存在」を信仰上の権威に加える「ポスト・キリスト」的な発想が出てきます。その代表例が、アドルフ・ヒトラーが政治的権力を握った1930年代に出現した「ドイツ・キリスト者」です。彼らは、キリスト教をナチズムから捉え直して、第三帝国の精神的支柱に据えようと画策しました。残念ながら、一部の神学者と一般の信徒を除いて、ドイツのルター派教会に所属する神学者や幹部層は、「ドイツ・キリスト者」に飲み込まれてしまいました。
これと同様に、創価学会の内部にいながら、「ポスト・池田時代」といった表現を用いて、創価学会の行く末を論じる者がいます。しかし、それ自体が創価学会の内在的論理に違背していると思います。なぜなら、2017年に発表された『創価学会会憲』では「三代会長の永遠性」が定められており、師匠から逸脱した信仰上の論理が成立しないことは明白だからです。それにも関わらず、「ポスト・池田時代」などと言う学会員が、ごく一部にですが、いるのです。これは「池田先生の次がある」という意味になり、創価学会の内在的論理に反するものと私は考えます。
また、「池田先生は正しいけれども、現在の執行部は間違っている」といったレトリックで批判を展開する者も出てくるでしょう。「そういう意見も認めないといけない」などと寛容性を強調する人がいるかもしれません。たしかに現代人にとって、寛容性と言えば、聞こえは良いでしょう。けれども、会員に大きな混乱をもたらしかねないような寛容性は認めるべきではありません。
そして、この種の発想は、主にインテリ層から生まれてきます。学者であれば誰しもが、自分の研究にプライドを持っているので、高く評価されることを好みます。その中で、学問的立場から信仰の内在的論理を否定する増上慢が現れる可能性がある。この問題は、創学研究所にとっても重要な課題の一つになるでしょう。
行き過ぎた政教分離の是正を
この五年間、公明党は重要な職務を果たしてきました。その上で、今後の課題は、創価学会と公明党の行き過ぎた政教分離を是正することだ、と思います。言うまでもなく、「政教分離」は国家が特定の宗教を優遇する、若しくは忌避することを禁じた原則です。それゆえ、宗教団体が信念体系を基づき、政治活動を行うことは、決して否定されるものではありません。これは、民主主義が奨励する重要な価値なのです。
本年(2019年)11月、ローマ教皇が日本に訪問します。ローマ教皇に関連して思い浮かぶのは、中国の宗教政策のことです。近い将来、中国政府がローマ教会の布教活動を認めるでしょう。いずれ、創価学会もまた公認されるはずです。そうなれば、中国にも創価学会員が誕生します。これによって、尖閣諸島を巡る領土問題、あるいは米中関係の対立のようなことが起きても、日中の民衆が草の根で団結しているから、平和を維持できるようになるでしょう。個人的には、そう考えています。
少々、細かい話になりますが、1981年にヨハネ・パウロ2世が来日してから、ローマ教会は日本政府に一つのお願いをしています。それは、明治時代に「法王」と訳された「Pope」を「教皇」に訂正し、「ローマ法王庁大使館」を「ローマ教皇庁大使館」に名称変更してほしい、というものです。これに対して、外務省は、クーデターや政権転覆がない限り、名称は変更できない、と回答しています。ただ、数年前に「グルジア」を「ジョージア」に変更するといった先例もありますから、もし公明党が名称変更に関する法律改正を主導すれば、ローマ教会にとって創価学会は、エキュメニカル運動(世界教会運動)のパートナーとして、重要な存在となるでしょう。
創価学会が世界宗教として発展する今日において、キリスト教の歴史的教訓は大いに役立つものです。今後、私にできることであれば、喜んで協力いたします。最後になりますが、創学研究所のご発展を心よりお祈り申し上げ、私の祝辞と致します。
※2019年11月20日、外務省は「ローマ法王」から「ローマ教皇」に名称変更することを発表した。
2019年3月12日
佐藤優氏の創学研究所開所式祝辞
2020/3/13掲載